Sources
資料
増田家の歴史を調べるための資料62件と、まだ答えの出ていない問いをまとめています。各記事の出典の番号から、このページの資料へ進めます。
増田家に伝わる資料
増田家に残る記録・遺品です。墓誌は現地で読めますが、ほかは未公開で、内容を調べているところです。
増田家墓誌家の記録
十六代 増田新一郎 昭和62年(1987年)12月 所在:千代田町赤岩の増田家の墓所(安楽寺の墓地と考えられる。確認中)
墓の改葬にあたって刻まれた石碑。初代を「上洲大胡上泉城三万石の城主増田伊勢守藤原繁敏」とし、弘治2年(1556年)没、次男平馬之助が母とともに赤岩に移って二代目を継ぎ、五代目新右エ門が安楽寺を開基したと記す。全文は下の「墓誌の全文」に載せています。
松平家からの書状家の伝承
明治維新のころ(年未詳) 所在:増田家所蔵(未公開・調査中)
明治維新の折、落ちのびる松平家を増田家がかくまい、その礼状などが残ると伝わる。どの松平家か、日付・文面は未確認。
大山巌の書家の伝承
大山巌 年未詳 所在:増田家所蔵(未公開・調査中)
出征前に増田家に立ち寄った大山巌が残したと伝わる書。日清・日露のどちらの戦争の折か、文面は調査中。
増田家に伝わる話(聞き取り)家の伝承
増田家 2026年
俵藤太の伝承、新田一族・足利尊氏との関わり、塩田家・荻野家との血縁、鰻屋新田家、大屋晋三の奉公、長屋門の引き取りなど、家に伝わる話。このサイトでは「家の伝承」と表示しています。
町・寺・公的機関の資料
千代田町教育委員会の説明板や町の公式サイト、寺の掲示など、公的に示されている資料です。
説明板「増田市八」町の資料
千代田町教育委員会 平成23年(2011年)2月 所在:千代田町(現地)
増田市八の生涯(舞木生まれ、慶応2年に22歳で95石の名主、明治22年に永楽村の初代村長、郡会議長、明治43年の大水害のあとの耕地整理組合、墓所は赤岩安楽寺)。
郷土の偉人町の資料
千代田町(教育委員会事務局 生涯学習係)
増田市八、藤原秀郷(出生は舞木・赤岩ほか諸説、舞木城址は俵団地として名を留め顕彰碑が建つ)、佐貫氏、赤井照光、光恩寺の僧良重、加藤利三郎、大塚半蔵などを紹介。パンフレット「改訂 郷土の偉人」(PDF)もある。なお増田市八が名主を務めた年齢は、ウェブページでは23歳、説明板では22歳。
千代田町の文化財/パンフレット『歴史散策 千代田町の文化財』町の資料
千代田町教育委員会
町内の文化財34件の一覧と地図。光恩寺の銅五種鈴(国指定)・地蔵菩薩画像板碑・阿弥陀三尊像(県指定)、長屋門ほか(国登録)、米山薬師古墳(赤岩・安楽寺)、舞木城址(舞木16区)、田山花袋の歌碑(赤岩・八幡神社)、赤岩の渡しなど。
説明板「荻野吟子 生家の長屋門」町の資料
千代田町教育委員会 平成9年(1997年)12月(再掲) 所在:光恩寺(現地)
吟子は俵瀬村の名主荻野綾三郎の五女。長屋門が光恩寺に移された時期は明確ではないが、明治23年(1890年)の境内図に描かれており、それ以前に移築されたようだ、とする。
掲示「荻野吟子略年表」寺の資料
赤岩山光恩寺 所在:光恩寺(現地)
明治6年11月8日に長屋門を出て上京、明治20年ごろ長屋門が俵瀬から光恩寺に移築。長屋門は「合格の門」と呼ばれ、毎年1月1日から4日まで開放される。
赤岩山光恩寺 公式ホームページ(文化財・寺宝/荻野吟子女史・受験合格の門)寺の資料
赤岩山光恩寺
長屋門の移築の経緯を「吟子が開業したころ実家の建物を整理することになり、荻野家の近所に住んでいた光恩寺の檀家を介して移築されたといわれる」と説明。庫裏は慶応2年(1866年)の火災の後、豪農荒川弘文の自宅を移したもの。阿弥陀三尊像の寺伝に藤原秀衡の名が伝わる。
文化遺産オンライン「光恩寺長屋門」公的資料
文化庁 登録 1999年2月17日
登録有形文化財。江戸(1830〜1867年)の建築。檀家の斡旋により妻沼町の荻野家から明治20年ごろに移築。
曹洞禅ナビ「安楽寺」公的資料
曹洞宗
群馬県邑楽郡千代田町赤岩1057。曹洞宗の寺院。
熊谷市立荻野吟子記念館公的資料
熊谷市
熊谷市俵瀬581番地1。吟子の生家跡に建つ記念館。
www.city.kumagaya.lg.jp/shisetsu/bunka/oginoginkokinenkan2.html
刊行物(図書館で読めるもの)
町誌・郡誌・県史・伝記・軍記など。所蔵は国立国会図書館サーチで確かめられます。まだ本文を確かめていないものは「未確認」と書いています。
旧高旧領取調帳(関東編)史料
明治初年の記録
明治初年の村ごとの支配。邑楽郡の赤岩村は幕府領(岩鼻陣屋の管轄、寺社領あり)、舞木村は幕府領と前橋藩領の相給(Wikipedia「邑楽郡」による整理)。国立歴史民俗博物館のデータベースで調べられる。
上州坪弓老談記(『国史叢書 上州治乱記・上州坪弓老談記・上州金山軍記・新田正伝記・新田正伝或問』所収)二次資料(軍記)
黒川真道 編 国史研究会 1915年
戦国時代の上野国の合戦を語る軍記物。新田(金山城の横瀬・由良氏)の家臣として「増田伊勢守」が成田氏への使者や膳城攻めの加勢に、「増田主膳之助」「増田紀伊守」も名が見える。軍記物なので、史実かどうかは他の史料と照らし合わせる必要がある。
大胡町誌刊行物(未確認)
大胡町 1976年
Wikipedia「大胡城」によれば、益田氏系図略記と益田氏の菩提寺の縁起を収める(益田行綱が大胡城を築き、修茂が横瀬国繁に属し、4代目茂政のとき落城して新田へ移り、横瀬景繁の娘を娶った)。本文は未確認。
千代田町誌刊行物(未確認)
千代田町教育委員会・千代田町公民館 1974年
本文は未確認。
千代田町史(通史・近世資料編・近代現代資料編・民俗編ほか)刊行物(未確認)
千代田町 1987〜2004年
近世資料編(1990年)、近代現代資料編(1998年)、民俗編(2000年)などがある。名主・村政・利根川の資料が期待できる。本文は未確認。
千代田町史の資料から刊行物(未確認)
千代田町 1997年
本文は未確認。
千代田町史談会誌刊行物(未確認)
千代田町史談会 1992年〜
本文は未確認。
上州・千代田よもやまばなし刊行物(未確認)
上州・千代田よもやまばなし刊行会 1983年
Wikipedia「光恩寺」が板碑・梵鐘・蛇剣などの出典に使っている。本文は未確認。
館林・邑楽の伝説刊行物(未確認)
あかぎ出版 2011年
本文は未確認。
群馬県邑楽郡誌刊行物(未確認)
群馬県邑楽郡教育会 1917年(大正6年)、名著出版の復刻 1973年
本文は未確認。
上野国郡村誌刊行物(未確認)
群馬県文化事業振興会 1987年〜(明治10年代の村誌の翻刻)
赤岩村・舞木村の明治初年のようすが期待できる。本文は未確認。
明和村誌刊行物(未確認)
明和村 1985年
大屋晋三の生まれた川俣(旧佐貫村)を含む。本文は未確認。
館林市史 資料編2 中世 佐貫荘と戦国の館林刊行物(未確認)
館林市 2007年
佐貫荘・赤井氏・舞木氏など、戦国時代の邑楽郡の史料集。本文は未確認。
日本城郭大系 4 茨城・栃木・群馬刊行物(未確認)
新人物往来社 1979年
巻末の一覧に新土塚城(前橋市)を増田繁政の城とする記載があると、ウェブ上で紹介されている。本文は未確認。
群馬県の中世城館跡刊行物(未確認)
群馬県教育委員会 1989年
県内の中世の城・館の調査報告。本文は未確認。
私の履歴書 第6集(大屋晋三)刊行物(未確認)
日本経済新聞社 編 1958年
Wikipedia「大屋晋三」の主な出典。佐貫村川俣で生まれ、父が永楽村の尋常小学校長になって舞木に移ったことが書かれているとされる。本文は未確認。
人間大屋晋三 帝人“不倒翁社長”の執念刊行物(未確認)
綱淵昭三 評言社 1975年
本文は未確認。
群馬県人名大事典刊行物(未確認)
上毛新聞社 1982年
本文は未確認。
花埋み小説
渡辺淳一 河出書房新社(のち新潮文庫) 1970年
荻野吟子の生涯を描いた小説。
近代以降の文芸にみる邑楽郡千代田町赤岩の芸術的風景認識(『群馬文化』2022年)論文(未確認)
群馬県地域文化研究協議会 2022年
赤岩を描いた文芸についての論文。田山花袋との関わりを確かめる手がかりになりそう。本文は未確認。
赤岩堂山古墳と光恩寺の意義について論文(未確認)
2023年
本文は未確認。
ウェブ上の資料(百科事典・城郭サイト・ブログ)
二次資料です。記事では、ほかの資料と照らし合わせたうえで、どこに書かれているかを示して使っています。
大胡城百科事典
Wikipedia
横瀬国繁方となった大胡城に配下の益田氏(大胡氏と同じ秀郷系藤原氏と伝える)が居城したこと、益田氏系図略記(『大胡町誌』収録)の内容。
大胡城(古城址探訪)城郭サイト
個人サイト
横瀬国繁が家臣増田氏(益田氏とも)を城代に派遣、永禄9年(1566年)の上杉謙信の攻撃時の城代は増田繁政、天正10年(1582年)に由良家臣増田伊勢守が城代として派遣された、とする。
新土塚城(古城址探訪)城郭サイト
個人サイト
前橋市の新土塚城を由良氏(横瀬氏)家臣増田繁政の居城とし、築城者を「新土氏ないし増田氏」とする。
上泉城(古城址探訪)城郭サイト
個人サイト
上泉氏は大胡氏の一族とされるが系譜は不明。信綱が上泉城で生まれ城主だったという説には確証がない、とする。
上野 大胡城(城郭放浪記)城郭サイト
個人サイト
天文10年(1541年)ごろ大胡氏が金山城横瀬氏に圧迫されて江戸牛込へ移り、その後、由良成繁の家臣増田繁政が城代を務めた、とする。
上野国・戦国時代その4 剣聖・新陰流上泉伊勢守信綱公的機関の解説
独立行政法人水資源機構 群馬用水管理所
大胡氏・上泉氏・上泉信綱の解説。横瀬氏配下の益田氏が大胡城に居城し、享徳年間に那波氏との戦いで落城して新田郷へ逃れたと伝わる、とする。
www.water.go.jp/kanto/gunma/sozoro%20walk/the%20age%20of%20civil%20war
上泉伊勢守とは顕彰会の解説
上泉伊勢守顕彰会(前橋市上泉町)
信綱を上泉城の四代目城主とし、永正5年(1508年)生まれとする。愛洲移香斎から陰流を学び新陰流を創始、将軍足利義輝への指導、柳生宗厳への伝授など。顕彰会の解説。
上泉信綱百科事典
Wikipedia
『言継卿記』に「大胡武蔵守」として現れること、柳生宗厳・宝蔵院胤栄・丸目長恵への印可状、印可状の署名「上泉伊勢守藤原信綱」など。
藤原秀郷百科事典
Wikipedia
天慶3年(940年)、平将門を討った功で従四位下。後裔氏族の一覧(上野国の佐貫氏・大胡氏・赤堀氏など、奥州藤原氏)。
由良成繁/横瀬氏/新田金山城百科事典
Wikipedia
横瀬氏は岩松氏の家宰から下剋上で新田領を支配し、成繁のとき由良に改姓。金山城(太田市)を本拠とした。
足利尊氏百科事典
Wikipedia
正室は赤橋登子(北条久時の娘)。
光恩寺 (群馬県千代田町)百科事典
Wikipedia
寺伝・文化財・慶応2年(1866年)の火災・明治16年(1883年)の本堂造営など。
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%81%A9%E5%AF%BA_(%E7%BE%A4%E9%A6%AC%
荻野吟子百科事典
Wikipedia
嘉永4年(1851年)俵瀬村の名主荻野綾三郎の五女に生まれ、明治18年(1885年)に医術開業試験に合格。
大屋晋三百科事典
Wikipedia
1894年に佐貫村大字川俣(現・明和町)で生まれ、高等小学校2年のとき父が永楽村の尋常小学校長となり、舞木に移った。
大山巌百科事典
Wikipedia
日清戦争(1894〜95年)で第2軍司令官、日露戦争(1904〜05年)で満州軍総司令官。
永楽村/千代田町/邑楽郡百科事典
Wikipedia
1889年4月1日、赤岩村の一部・福島村・舞木村・鍋谷村・新福寺村・瀬戸井村の一部が合併して永楽村。1955年3月31日、富永村・長柄村と合併して千代田村。
赤岩渡船百科事典
Wikipedia
熊谷市葛和田と千代田町赤岩を結ぶ県道の渡し。上杉謙信に関する文献にも登場し、江戸時代は坂東十六渡津の一つ。1926年に県営。
明治43年の大水害百科事典
Wikipedia
1910年8月、梅雨前線と二つの台風による関東の大水害。
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB43%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%A4%A7%
農地改革百科事典
Wikipedia
1947年3月から1950年7月まで、国が地主の小作地を買い上げて小作人に売り渡した。
田山花袋百科事典
Wikipedia
1872年、邑楽郡館林町(現・館林市)に生まれる。
うなぎ・割烹 新田家店の案内
新田家(店の公式サイト)
千代田町舞木70-1。江戸時代末期、嘉永年間の創業。田山花袋の小説の舞台になったとし、花袋直筆の掛け軸がある。千代田町商工会のページでは「創業160余年、田山花袋ゆかりの店」。
舞木城・赤岩城(群馬県千代田町)個人サイト
個人サイト(遺跡めぐり)
舞木城址の公園に「藤原秀郷公誕生之地」の石碑があり、揮毫は陸軍大将荒木貞夫とする。
舞木城址(千代田町)観光サイト
WEB群馬
藤原秀郷が承平年中(931〜937年)に築城したと伝える。小さな公園の一角に「藤原秀郷公誕生の地」と記された石碑が建つ。
上州坪弓老談記(第5話・第10話・第29話・第31話)ブログ
ブログ「続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だより3」
『上州坪弓老談記』の本文と現代語のあらすじ。第10話で膳城攻めの「新田より加勢」に増田伊勢守、第29話で横瀬殿が成田氏への使者に増田伊勢守と広瀬長蔵を遣わす。
千代田町赤岩・米頂山安楽寺ブログ
ブログ「上州まったり紀行」 2014年
安楽寺は行基が庵を結んだのが始まりと伝え、徳治元年(1306年)に医王山龍泉寺(臨済宗)として開山、寛永7年(1630年)に国厳本策和尚が中興して曹洞宗の米頂山安楽寺としたとする。境内の米山薬師古墳、墓地に増田家の墓石が多いことにもふれる。
姓氏と家紋 増田(益田/升田)氏個人サイト
個人サイト(家紋World・播磨屋)
増田の地名・各地の増田氏(信濃・陸奥・武蔵など)。上野の増田氏や千代田町の増田家についての記述はない。
関宿城百科事典
Wikipedia
寛保2年(1742年)の江戸洪水で、利根川上流部の舞木・赤岩・北河原などが破堤したとする。
新田郡百科事典
Wikipedia
町村制で西長岡村などが強戸村になったこと、太田市の東長岡町などが旧新田郡に属したこと。
墓誌の全文
昭和62年(1987年)12月、十六代増田新一郎が墓の改葬にあたって建てた墓誌の文面です。写真は、人の写り込みがあるため掲載していません。
増田家先祖は上洲大胡上泉城三万石の城主増田伊勢守藤原繁敏なり 後に新田郡長岡の城主となり室町末期弘治二年に歿す 増田伊勢守繁敏の次男平馬之助は母に附添い戦火を遁れ赤岩の地に来り武士を捨て母と共に増田家二代目を継ぎ赤岩の郷土となる 増田家は大胡長岡はもとより代々曹洞宗の信仰を深め赤岩村に曹洞宗の寺院のなきを惜しみ五代目新右エ門代に至って安樂寺を開基一門を挙げて曹洞宗の護持に努めた 父祖五世紀に亘る増田家の家系を顧ると 栄光と盛衰を繰り返し幾多の起伏変転を重ねた 増田家五百年の輝く歴史と不滅の伝統を省みるとき感慨あらたなものがある 先祖の広大な恩徳に感謝し末永い子孫の繁栄を祈って墓基改葬にあたり茲に記す
昭和六十二年十二月 十六代目 増田新一郎
墓誌の内容の読み解きは「増田伊勢守とは誰か」にあります。
増田家に残る品(未公開)
増田家所蔵の書状(松平家より)未公開・調査中
明治維新の折、落ちのびる松平家をかくまったときのものと伝わる書状。どの松平家か、日付・文面を調べています。
大山巌の書(増田家所蔵)未公開・調査中
出征の前に増田家に立ち寄った大山巌が残したと伝わる書。文面・年紀を調べています。
ご家族のご了解をいただいたうえで、写真や読み下しを順次掲載する予定です。
調査中の問い
記事を書く中で出てきた、まだ答えの出ていない問いです。ご存じのことがあれば教えてください。
墓誌と初代
- 墓誌の建つ場所(安楽寺の墓地か)と、写真(人の写り込みを除いたもの)を公開してよいか。
- 増田家の系図・過去帳・位牌はあるか。二代〜十五代の名前、とくに三代・四代と六代〜十五代。
- 増田市八は何代目にあたるか。
- 墓誌の「繁敏」の読み方(しげとし?)。城郭サイトの「増田繁政」(大胡城代、1566年)との関係について、家に伝わる話はあるか。
- 「新田郡長岡」はどこを指すと伝わっているか。
- 増田家の家紋は何か(このサイトの印は家紋ではありません)。
伝承の出どころ
- 足利尊氏の結婚式に出席した「記録」は、家に伝わる文書か、口伝えの話か。
- 俵藤太の「生誕の地」の碑がある敷地が一族の土地だったことを示す地図・証文はあるか。
- 奥州藤原氏とのつながりについて、家に伝わる話はあるか。
寺と縁組み
- 安楽寺の開基(五代目新右エ門)について、寺の過去帳・縁起・棟札に記録はあるか。
- 塩田家とはどのような血縁か。塩田家が光恩寺を「建立」したとは、どの建物の、いつのことか。
- 荻野家との血縁は、いつ、誰と誰の縁組みか。
- 長屋門が増田家の屋敷に建っていた時期と場所、光恩寺へ移した年を示す記録はあるか。
家に残る品
- 松平家からの書状:どの松平家か、日付・差出人・文面、画像を公開してよいか。
- 大山巌の書:文面・年紀・署名、日清・日露のどちらの折か、写真を公開してよいか。
- 大屋晋三が奉公していた時期(何歳ごろ、何年ほど)について伝わっていること、手紙などはあるか。
- 鰻屋の新田家を作らせた経緯や、店の名の由来について伝わっていること。
- 「鰻屋新田家」の読み(にったや)で正しいか。
資料を集めています
増田家の系図・過去帳・位牌・古文書・書状・写真、赤岩・舞木の昔のようす、増田市八や永楽村について聞いた話など、増田家と地域の歴史にかかわる資料やお話を集めています。ご親族の方、地域の方、研究をされている方からの情報をお待ちしています。
お預かりした資料は、持ち主の方のご了解をいただいた範囲でのみ紹介し、出典を明記します。
問い合わせ先は準備中です。決まりしだい、このページでお知らせします。