通史
増田家の五百年 ― 大きな氏族のはざまで赤岩を治めた一族
俵藤太に始まる秀郷流の伝承、新田と足利、上杉と北条のはざまで揺れた戦国の大胡城、そして利根川べりの赤岩・舞木での名主と村長の家。増田家の歩みを、時代ごとに「周りの大きな氏族と出来事」「増田家の資料が語ること」「そのつながり」の三つに分けて、通して読めるようにまとめました。
伊勢守編集部・2026年10月17日更新

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この記事では、段落ごとに資料の確かさを示しています。史料は同じ時代の記録や公的な登録、町の資料は千代田町の説明板・公式サイトや寺の掲示、二次資料は後の時代の軍記・町誌・城郭サイト・百科事典、家の伝承は増田家に伝わる話と墓誌、推測は編集部の考えです。番号は記事の末尾の出典に対応します。
一 平安 ― 俵藤太と秀郷流の広がり
周りの氏族と出来事
二次資料藤原秀郷(俵藤太)は、天慶3年(940年)に平将門を討った功で従四位下となり、下野守を務めました1。秀郷の子孫は都で官職を得る一方、東国に根を張り、下野国の佐野氏・小山氏、上野国の佐貫氏・大胡氏・赤堀氏など、多くの武士の家が「秀郷流」を名乗りました。陸奥で栄えた奥州藤原氏(清衡・基衡・秀衡・泰衡)も、秀郷の流れを称した一族です1。
町の資料中世の邑楽郡一帯は佐貫荘と呼ばれ、千代田町の資料によれば、佐貫氏の一族が赤岩に城を築き、のちに当地でも秀郷の子孫が「秀郷流」を名乗って勢力を広げました。秀郷の出生地には舞木・赤岩ほか諸説があり、舞木城を秀郷が築いたと伝えます2。赤岩の光恩寺の阿弥陀三尊像には、寺伝で奥州の藤原秀衡の名が伝わっています3。
増田家の資料が語ること
家の伝承増田家は俵藤太に発するとされ、かつての一族の土地に生誕の地の石碑があると伝えます4。墓誌は初代を「増田伊勢守藤原繁敏」と記します5。
つながり
推測「藤原」の名乗りは、増田家が秀郷流の武士の家として自らを位置づけてきたことを示しています。秀郷流は東国に広く分かれたため、増田家がどの家から分かれたのかを、伝承だけでたどることはできません。奥州藤原氏と増田家を直接結ぶ伝承や記録は、今のところ確認していません。
二 鎌倉・南北朝 ― 新田と足利のあいだ
周りの氏族と出来事
二次資料赤岩の北西には源氏の新田氏の本拠・新田荘(太田市)、北には足利氏の本拠・足利荘があります。元弘3年(1333年)、新田義貞は鎌倉を攻めて幕府を滅ぼし、足利尊氏は京都の六波羅を落としました。のちに二人は南北朝の争いで敵味方に分かれます6。尊氏の正室は北条氏一門の赤橋登子でした6。
史料赤岩の光恩寺には、文永8年(1271年)の地蔵菩薩画像板碑が残り、鎌倉時代にはすでに信仰の場であったことが分かります7。
増田家の資料が語ること
家の伝承増田家は、一族が源氏の新田一族と交わり、足利尊氏の結婚式に出席したと伝えます4。
つながり
推測尊氏の婚礼への出席を記した同時代の記録は見つかっていません。一方で、次の戦国時代には、増田氏が新田(金山城)の由良氏の家臣として現れ、新田へ移って横瀬氏と縁組みしたという系図の伝えもあります。家の伝承の「新田一族と交わり」は、こうした新田との深い関わりを伝えるものかもしれません(「新田一族・足利尊氏との関わり」)。
三 室町・戦国 ― 大胡城と上泉城、金山城の家臣として
周りの氏族と出来事
二次資料15世紀半ばの享徳の乱のころから、関東は古河公方と上杉氏の争いに入り、上野国では新田の岩松氏の家宰だった横瀬氏が実権を握って、金山城を本拠に新田領を治めました。横瀬氏はのちに由良と改めます8。16世紀には、越後の上杉謙信と小田原の北条氏が上野国をめぐって争い、由良氏はその間で立場を変えながら領地を保ちました89。
二次資料赤城山の南麓の大胡城は秀郷流の大胡氏の城でしたが、横瀬氏に圧迫された大胡氏は天文10年(1541年)ごろ江戸の牛込へ移ったとされます。支城の上泉城からは、新陰流を開いた上泉伊勢守信綱が出ました1011。邑楽郡では赤井照光が館林城を築き、天文14年(1545年)に亡くなると赤岩の光恩寺に葬られました2。
増田家の資料が語ること
二次資料外の資料には、横瀬・由良氏の家臣の「増田(益田)氏」が繰り返し現れます。横瀬国繁の配下の益田氏が大胡城に居城したこと(『大胡町誌』の益田氏系図略記を紹介するWikipedia)、由良成繁の家臣増田繁政が大胡城代を務め、永禄9年(1566年)に上杉謙信に城を落とされたこと、天正10年(1582年)に由良家臣の増田伊勢守が城代として派遣されたこと(城郭サイト)、軍記『上州坪弓老談記』で増田伊勢守が金山城の横瀬殿の使者や加勢として登場することです1210913。
家の伝承墓誌は、初代増田伊勢守藤原繁敏を「上洲大胡上泉城三万石の城主」とし、のちに新田郡長岡の城主となって弘治2年(1556年)に亡くなったと記します。次男の平馬之助は母に付き添って戦火を逃れ、赤岩に来て武士を捨て、二代目を継ぎました5。
つながり
推測墓誌の「大胡」「新田」と、外の資料の「大胡城代」「金山城の家臣」は、増田家が戦国時代に由良氏のもとで大胡と新田を行き来した武士の家だったことを、別々の方向から示しています。名前(繁敏と繁政)や年代には食い違いがあり、同じ人物とは言えません(「増田伊勢守とは誰か」)。
推測繁敏が亡くなった1556年のあと、関東では永禄3年(1560年)から上杉謙信(長尾景虎)の関東出兵が始まり9、由良氏の領地も上杉と北条の争いに巻き込まれました。平馬之助が「戦火を遁れ」て赤岩に来たというのは、この時期の戦乱を指すと読むのが自然です。赤岩は利根川の渡しを押さえる土地で、新田の由良氏と館林の赤井氏などの勢力が接するところでした。武士を捨てて土地の家となったのは、大きな氏族の争いの中で家を残すための選択だったのかもしれません。
四 江戸 ― 赤岩・舞木の名主の家
周りの氏族と出来事
史料江戸時代の赤岩村は幕府領、舞木村は幕府領と前橋藩領の相給でした(明治初年の『旧高旧領取調帳』)14。赤岩は利根川の舟運で江戸と結ばれ、大型船がさかのぼれる終点として幕府の坂東十六渡津の一つに数えられました15。寛保2年(1742年)の洪水では、舞木・赤岩で堤防が切れたと伝わります16。
増田家の資料が語ること
家の伝承墓誌は、五代目新右エ門が、赤岩村に曹洞宗の寺がないのを惜しんで安楽寺を開基したと記します5。
二次資料安楽寺は、寛永7年(1630年)に国厳本策和尚が中興して曹洞宗の米頂山安楽寺になったと紹介されています17。舞木の鰻屋新田家は嘉永年間(1848〜1855年)の創業と伝え、増田家はこの店を作らせたと伝えます184。
町の資料幕末の慶応2年(1866年)、増田市八が22歳で95石の名主を務めました(千代田町教育委員会の説明板)19。
つながり
推測戦国時代に赤岩へ移った家が、江戸時代に寺の開基となり、幕末に名主を務めていたことは、増田家が村の中心の家として続いていたことを示しています。江戸時代を通じて名主だったかどうか、赤岩と舞木のどちらの名主だったかは、千代田町史の近世資料編などで確かめる必要があります20。
五 幕末・明治・大正 ― 村長の家として
周りの氏族と出来事
二次資料明治維新の戊辰戦争(1868年)を経て、明治22年(1889年)に町村制が施行され、赤岩村の大部分・舞木村などが合併して永楽村が生まれました21。明治43年(1910年)には関東を大水害が襲いました22。対岸の俵瀬からは、名主荻野綾三郎の五女・荻野吟子が明治18年(1885年)に公許女医第一号となりました23。
増田家の資料が語ること
町の資料増田市八は永楽村の初代村長に推されて十余年務め、明治29年(1896年)からは邑楽郡会議員・郡会議長、明治43年の大水害のあとは耕地整理組合の設立に尽くしました。大正4年(1915年)に亡くなり、赤岩の安楽寺に葬られました19。
町の資料荻野吟子の生家の長屋門は、明治20年ごろ(遅くとも明治23年=1890年まで)に、檀家の仲立ちで俵瀬から光恩寺へ移されました24233。
家の伝承増田家には、明治維新の折に落ちのびる松平家をかくまって書状が残ること、荻野家・塩田家との血縁、荻野家が絶えたとき長屋門を引き取ってのちに光恩寺へ移したこと、塩田家が光恩寺を建立したこと、出征前の大山巌が立ち寄って書を残したこと、若い大屋晋三が奉公していたことが伝わります42526。
二次資料大屋晋三の一家が、父の永楽村の小学校長への転任で明治の終わりごろ舞木に移ったことは、伝記的な資料で確かめられます27。
つながり
推測江戸時代の名主の家が、町村制のもとで新しい村の長となり、郡の議会や治水・耕地整理をになったことは、全国の旧家に共通する歩みです。長屋門の移築や大屋家との縁などの家の伝承は、渡しで結ばれた利根川の両岸と、永楽村の中心にあった家の姿を伝えています。伝承の多くは、家に残る書状・書や寺の記録と照らし合わせることで、さらに確かめられるはずです。
六 昭和以後 ― 農地改革と墓誌
周りの出来事
史料第二次世界大戦の後、昭和22年(1947年)から昭和25年(1950年)にかけて農地改革が行われ、地主の小作地は国が買い上げて小作人に売り渡されました28。昭和30年(1955年)、永楽村は富永村・長柄村と合併して千代田村になりました21。
増田家の資料が語ること
家の伝承増田家は、第二次世界大戦の終戦まで庄屋として地域を治めたと伝えます4。昭和62年(1987年)、十六代増田新一郎は墓を改葬し、「父祖五世紀に亘る増田家の家系を顧ると 栄光と盛衰を繰り返し幾多の起伏変転を重ねた」と墓誌に刻みました5。
町の資料平成23年(2011年)、千代田町教育委員会は増田市八の説明板を建てました19。
つながり
推測平安の秀郷の伝承から昭和の墓誌まで、増田家の歴史は、新田・足利、上杉・北条、由良・赤井といった大きな氏族と時代の流れのはざまで、家を保ち、土地を治めてきた歩みとして読むことができます。そのうち、町の資料や公的な記録で確かめられるのは主に幕末以後で、それより前は墓誌と家の伝承、そして城郭サイトや軍記に現れる「増田」の名が手がかりです。このサイトでは、これからも資料を集め、確かめられたことを書き足していきます。
増田家ゆかり寺社城跡人物ゆかりまち
地図の点は、確かな位置が分かる場所だけです。墓誌の「新田郡長岡」と新田荘の中心地(世良田など)は、位置を確かめていないため載せていません。
出典・資料
- 藤原秀郷(Wikipedia) 百科事典 開く
- 郷土の偉人(千代田町(教育委員会事務局 生涯学習係)) 町の資料 開く
- 赤岩山光恩寺 公式ホームページ(文化財・寺宝/荻野吟子女史・受験合格の門)(赤岩山光恩寺) 寺の資料 開く
- 増田家に伝わる話(聞き取り)(増田家、2026年) 家の伝承
- 増田家墓誌(十六代 増田新一郎、昭和62年(1987年)12月) 家の記録
- 足利尊氏(Wikipedia) 百科事典 開く
- 千代田町の文化財/パンフレット『歴史散策 千代田町の文化財』(千代田町教育委員会) 町の資料 開く
- 由良成繁/横瀬氏/新田金山城(Wikipedia) 百科事典 開く
- 大胡城(古城址探訪)(個人サイト) 城郭サイト 開く
- 上野 大胡城(城郭放浪記)(個人サイト) 城郭サイト 開く
- 上泉信綱(Wikipedia) 百科事典 開く
- 大胡城(Wikipedia) 百科事典 開く
- 上州坪弓老談記(『国史叢書 上州治乱記・上州坪弓老談記・上州金山軍記・新田正伝記・新田正伝或問』所収)(黒川真道 編、1915年) 二次資料(軍記) 開く
- 旧高旧領取調帳(関東編)(明治初年の記録) 史料 開く
- 赤岩渡船(Wikipedia) 百科事典 開く
- 関宿城(Wikipedia) 百科事典 開く
- 千代田町赤岩・米頂山安楽寺(ブログ「上州まったり紀行」、2014年) ブログ 開く
- うなぎ・割烹 新田家(新田家(店の公式サイト)) 店の案内 開く
- 説明板「増田市八」(千代田町教育委員会、平成23年(2011年)2月) 町の資料
- 千代田町史(通史・近世資料編・近代現代資料編・民俗編ほか)(千代田町、1987〜2004年) 刊行物(未確認) 開く
- 永楽村/千代田町/邑楽郡(Wikipedia) 百科事典 開く
- 明治43年の大水害(Wikipedia) 百科事典 開く
- 説明板「荻野吟子 生家の長屋門」(千代田町教育委員会、平成9年(1997年)12月(再掲)) 町の資料
- 文化遺産オンライン「光恩寺長屋門」(文化庁、登録 1999年2月17日) 公的資料 開く
- 松平家からの書状(明治維新のころ(年未詳)) 家の伝承
- 大山巌の書(大山巌、年未詳) 家の伝承
- 大屋晋三(Wikipedia) 百科事典 開く
- 農地改革(Wikipedia) 百科事典 開く
資料の一覧は資料のページにあります。家の伝承は増田家への聞き取りと墓誌によります。



