一族の起こり
俵藤太の伝承と舞木城址 ― 「藤原秀郷公誕生之地」の碑
増田家は、平将門を討った藤原秀郷(俵藤太)に発するとされています。千代田町には秀郷の出生地とする伝承があり、舞木城址には誕生の地の碑が建っています。町の資料・城跡の案内・家の伝承を分けて紹介します。
伊勢守編集部・2026年10月17日更新

この記事の表示:町の資料二次資料家の伝承背景推測表示の意味
藤原秀郷は平安時代中期の武将で、俵藤太(たわらのとうた)の名で知られます。近江の三上山の大百足を退治した伝説の主人公であり、天慶3年(940年)には平将門の乱を平定し、その功で従四位下に叙され、下野守となりました1。
千代田町に伝わる秀郷
町の資料千代田町の公式サイト「郷土の偉人」は、秀郷を藤原北家の左大臣魚名から三代下った村雄の子とし、出生地には舞木・赤岩ほか多くの説がある、と紹介しています。当地の伝承として「赤城山の百足退治」と舞木城の築城を挙げ、舞木城址は永楽小学校の敷地として60年間使われたあと、いまは「俵団地」としてその名を留め、一角に顕彰碑が建っていると記しています2。
町の資料町の文化財の一覧でも、舞木城址は舞木16区にある史跡として載っています3。
二次資料群馬県の観光サイトは、舞木城を周囲に土居と堀をめぐらせた約3ヘクタールの平城で、秀郷が承平年間(931〜937年)に築いたと伝え、いまは小さな公園の一角に「藤原秀郷公誕生の地」の石碑があるだけだと紹介しています4。遺跡めぐりの個人サイトは、この「藤原秀郷公誕生之地」の碑の揮毫を陸軍大将荒木貞夫としています5(碑の建立年は未確認です)。
町の資料舞木城は、戦国時代には館林城の物語にも登場します。町の資料は、15世紀ごろ舞木氏の寄騎だった赤井氏が力をつけ、のちに赤井照光が館林城(尾曳城)を築いたこと、照光が遺言で赤岩の光恩寺に葬られたことを伝えています2。
増田家に伝わる話
家の伝承増田家では、一族は俵藤太に発するとされ、かつて一族の土地だった敷地の中に、生誕の地とされる石碑があると伝えています6。墓誌が初代を「増田伊勢守藤原繁敏」と記すのも、秀郷流の藤原氏を名乗る家であることを示しています7。
二次資料外の資料にも、これと響き合う記述があります。戦国時代に大胡城の城代を務めた増田(益田)氏は、大胡氏と同じ秀郷系の藤原氏を称したと伝わります8。Wikipediaの「藤原秀郷」の後裔氏族の一覧には、上野国の佐貫氏・大胡氏・赤堀氏などとともに、下野国の「益田氏」も挙がっています1(この下野の益田氏と増田家との関係は分かっていません)。
伝承をどう読むか
背景秀郷の生まれた場所は、確かな史料では分かっていません。下野・上野・近江などに、それぞれ誕生や活躍の伝承があります。中世から近世にかけて、東国の多くの武士の家が秀郷を祖と仰ぎ、各地に秀郷ゆかりの城や伝説が語り継がれました。舞木の誕生伝承と築城伝承も、この大きな流れの中にあります。
推測増田家が秀郷を祖とする伝承は、大胡の増田(益田)氏が秀郷流を称したこと、赤岩・舞木を含む佐貫荘でも秀郷の子孫が「秀郷流」を名乗って勢力を広げたと町の資料が伝えること2と重なります。家の伝承が、どの段階で「俵藤太」と結びついたのか(大胡のころからか、赤岩に来てからか)は、系図や古い記録が見つかれば手がかりになるでしょう。
訪ねるときは
舞木城址は千代田町舞木の住宅地の中の小さな公園で、駐車場はありません4。近くには鰻の新田家、少し歩くと安楽寺・光恩寺があります。位置は地図で確かめられます。
出典・資料
- 藤原秀郷(Wikipedia) 百科事典 開く
- 郷土の偉人(千代田町(教育委員会事務局 生涯学習係)) 町の資料 開く
- 千代田町の文化財/パンフレット『歴史散策 千代田町の文化財』(千代田町教育委員会) 町の資料 開く
- 舞木城址(千代田町)(WEB群馬) 観光サイト 開く
- 舞木城・赤岩城(群馬県千代田町)(個人サイト(遺跡めぐり)) 個人サイト 開く
- 増田家に伝わる話(聞き取り)(増田家、2026年) 家の伝承
- 増田家墓誌(十六代 増田新一郎、昭和62年(1987年)12月) 家の記録
- 大胡城(Wikipedia) 百科事典 開く
資料の一覧は資料のページにあります。家の伝承は増田家への聞き取りと墓誌によります。



