一族の起こり

上泉伊勢守と増田伊勢守 ― 大胡城・新陰流と増田家

剣聖と呼ばれた上泉伊勢守信綱と、増田家の初代とされる増田伊勢守。二人の「伊勢守」は、赤城山の南麓、大胡と上泉という同じ土地でつながっています。同じ名乗りが意味すること、意味しないことを、資料ごとに分けて考えます。

伊勢守編集部・2026年10月17日更新

大胡城の本丸跡
大胡城の本丸跡写真: Qurren(CC BY-SA 3.0、Wikimedia Commons)

この記事の表示:二次資料史料背景家の伝承推測表示の意味

赤城山の南の裾野、いまの前橋市の東部に、大胡城と上泉城という二つの城跡があります。大胡城は藤原秀郷の流れをくむ大胡氏の本城、上泉城はその一族とされる上泉氏の城で、上泉城からは戦国時代の兵法家、上泉伊勢守信綱が出ました。増田家の墓誌は、初代の増田伊勢守藤原繁敏を「上洲大胡上泉城三万石の城主」と刻んでいます1。同じ土地、同じ「伊勢守」。二つの家はどうつながるのでしょうか。

大胡氏と上泉氏

二次資料大胡氏は鎌倉時代から『吾妻鏡』にその名が見える武士で、Wikipediaは藤原秀郷の後裔氏族の一つとして上野国の大胡氏を挙げています23。上泉氏は大胡氏の一族とされますが、詳しい系譜は分かっていません。上泉家に伝わる系譜は、一色氏の一族が衰えた大胡氏の名跡を継ぎ、上泉に城を築いたのが始まりだとしています456。

二次資料戦国時代の半ばには、新田金山城(太田市)の横瀬氏(のちの由良氏)が勢力を伸ばし、大胡氏は天文10年(1541年)ごろ大胡を離れて江戸の牛込へ移ったとされます。その後の大胡城に城代として入ったのが、横瀬・由良氏の家臣の増田(益田)氏でした73。

上泉伊勢守信綱と新陰流

二次資料上泉信綱は、陰流を学んで新陰流を開いた兵法家です。上泉伊勢守顕彰会は、信綱を永正5年(1508年)生まれ、上泉城の四代目の城主とし、陰流の愛洲移香斎から教えを受けて新陰流を創始したと紹介しています6。生年には確かな史料がなく、諸説があります8。

史料同じ時代の史料で確かめられる信綱の姿もあります。永禄8年(1565年)4月に柳生宗厳(石舟斎)に与えた印可状、同年8月の宝蔵院胤栄への印可状、永禄10年(1567年)の丸目長恵への目録と印可状が伝わり、そこで信綱は「上泉伊勢守藤原信綱」と署名しています。公家の山科言継の日記『言継卿記』には、永禄12年(1569年)から元亀2年(1571年)にかけて「大胡武蔵守」「上泉武蔵守」として30回あまり登場し、言継に軍配(兵法)を伝えたことが記されています8。

二次資料将軍足利義輝の前で兵法を披露し、感状を受けたとも伝わります。新陰流は柳生宗厳に伝えられ、のちに柳生新陰流として広まりました865。

「伊勢守」という名乗り

背景伊勢守は、もとは伊勢国の長官を指す官名です。戦国時代の武士は、朝廷から正式に任じられていなくても「○○守」を名乗ることがよくありました。これを官途名・受領名と呼びます。実際、同じ時代の関東には何人もの「伊勢守」がいました。信綱自身も、のちに「武蔵守」へ名乗りを変えています8。

背景そのため、「増田伊勢守」と「上泉伊勢守」が同じ名乗りを持つことは、それだけでは血縁や主従の証拠になりません。一方で、同じ大胡の地で、ともに秀郷流の「藤原」を名乗る家だったことは、二つの家が同じ地域の武士社会に属していたことを示しています。

二つの家の接点

資料ごとに分けると、二つの家の接点は次のようになります。

  • 家の伝承墓誌は、増田家の初代を「大胡上泉城」の城主とする1。
  • 二次資料外の資料は、横瀬・由良氏の家臣の増田(益田)氏が大胡城の城代を務めたとする39。
  • 二次資料上泉氏は大胡城の支城の上泉城を拠点とし、大胡氏の一族として大胡周辺に勢力を保ったとされる5。
  • 二次資料上泉氏と増田氏が直接やりとりした記録(文書・軍記の場面など)は、今回調べた範囲では見つかっていない。

推測増田氏が大胡城の城代になったのは、大胡氏が去り、上泉氏が上杉方・長野氏方として動いていた時期にあたります。上泉氏と増田氏は、同じ大胡の地で、ある時期には敵味方に分かれていた可能性もあります。墓誌が「大胡上泉城」と二つの城の名を並べているのは、増田家が大胡城と上泉城のある大胡の地一帯を治めた、という家の記憶を伝えたものとも考えられます。いずれも推測で、確かめるには『大胡町誌』『前橋市史』などの史料にあたる必要があります。

大胡から赤岩へ

家の伝承墓誌によれば、増田家は大胡のあと新田郡長岡に移り、初代繁敏が弘治2年(1556年)に亡くなったのち、次男の平馬之助が母とともに戦火を逃れて赤岩に来ました1。大胡・上泉は赤城山の南麓、赤岩は利根川べりで、直線でおよそ35キロ離れています。新田(太田)はその中ほどにあります。地図で三つの場所を並べると、増田家が新田の由良氏のもとで動いたという伝えが、地理の上でも筋が通ることが分かります。

上泉の地には、いまも上泉信綱の像が建ち、上泉伊勢守顕彰会が顕彰を続けています6。大胡城跡は県の史跡として本丸の土塁や空堀が残ります3。増田家の起こりをたどる旅は、赤岩から大胡・上泉へとさかのぼる旅でもあります。

出典・資料

  1. 増田家墓誌(十六代 増田新一郎、昭和62年(1987年)12月) 家の記録
  2. 藤原秀郷(Wikipedia) 百科事典 開く
  3. 大胡城(Wikipedia) 百科事典 開く
  4. 上泉城(古城址探訪)(個人サイト) 城郭サイト 開く
  5. 上野国・戦国時代その4 剣聖・新陰流上泉伊勢守信綱(独立行政法人水資源機構 群馬用水管理所) 公的機関の解説 開く
  6. 上泉伊勢守とは(上泉伊勢守顕彰会(前橋市上泉町)) 顕彰会の解説 開く
  7. 上野 大胡城(城郭放浪記)(個人サイト) 城郭サイト 開く
  8. 上泉信綱(Wikipedia) 百科事典 開く
  9. 大胡城(古城址探訪)(個人サイト) 城郭サイト 開く

資料の一覧は資料のページにあります。家の伝承は増田家への聞き取りと墓誌によります。

この記事の用語

Stories

一族の物語

すべての物語 →

通史

増田家の五百年

俵藤太に始まる秀郷流の伝承、新田と足利、上杉と北条のはざまで揺れた戦国の大胡城、そして利根川べりの赤岩・舞木での名主と村長の家。増田家の歩みを、時代ごとに「周りの大きな氏族と出来事」「増田家の資料が語ること」「そのつながり」の三つに分けて、通して読めるようにまとめました。

大きな氏族のはざまで赤岩を治めた一族

一族の起こり

増田伊勢守とは誰か

増田家の墓誌は、初代を「上洲大胡上泉城三万石の城主 増田伊勢守藤原繁敏」と刻んでいます。戦国時代の上野国には、たしかに「増田伊勢守」「増田繁政」という名が現れます。家の記録と外の記録を一つずつ並べ、分かっていることと分からないことを整理しました。

墓誌と戦国の記録を読み合わせる

一族の起こり

俵藤太の伝承と舞木城址

増田家は、平将門を討った藤原秀郷(俵藤太)に発するとされています。千代田町には秀郷の出生地とする伝承があり、舞木城址には誕生の地の碑が建っています。町の資料・城跡の案内・家の伝承を分けて紹介します。

「藤原秀郷公誕生之地」の碑

一族の起こり

新田一族・足利尊氏との関わり

増田家には、源氏の新田一族と交わり、足利尊氏の結婚式に出席したという伝承があります。新田と足利は、赤岩から見て北西と北にある隣の土地です。記録で確かめられること、伝承として残ることを分けてたどります。

伝承と記録のあいだ