Glossary

用語集

増田家と赤岩・舞木の歴史を読むための言葉62語。記事の本文の用語からも、このページの説明へ進めます。各項目の印は、説明の根拠になった資料の種類です。

人物

増田伊勢守ますだいせのかみ家の伝承

増田家が先祖とする人物の呼び名。墓誌は初代を「増田伊勢守藤原繁敏」とする。戦国時代の城郭の記録や軍記にも、横瀬(由良)氏の家臣として「増田伊勢守」の名が見えるが、同じ人物かどうかは確かめられていない。

増田伊勢守とは誰か増田家の五百年上泉伊勢守と増田伊勢守俵藤太の伝承と舞木城址

増田繁敏ますだしげとし(読みは推定)家の伝承

墓誌が記す増田家の初代。「上洲大胡上泉城三万石の城主」で、のちに新田郡長岡の城主となり、弘治2年(1556年)に亡くなったとされる。墓誌のほかに名を記した資料はまだ見つかっていない。

増田伊勢守とは誰か増田家の五百年上泉伊勢守と増田伊勢守俵藤太の伝承と舞木城址

増田繁政ますだしげまさ二次資料

城郭サイトや町誌系の解説で、横瀬(由良)氏の家臣として大胡城の城代を務めたとされる人物。永禄9年(1566年)に上杉謙信に大胡城を落とされたとされる。前橋市の新土塚城を居城とする説もある。墓誌の繁敏と同じ人物か別人かは分からない。

増田伊勢守とは誰か増田家の五百年

増田平馬之助ますだへいまのすけ家の伝承

墓誌が記す二代目。繁敏の次男で、母に付き添って戦火を逃れて赤岩に移り、武士を捨てて増田家を継いだとされる。

増田伊勢守とは誰か増田家の五百年上泉伊勢守と増田伊勢守利根川と赤岩の渡し、庄屋の家

増田新右エ門ますだしんえもん家の伝承

墓誌が記す五代目。赤岩村に曹洞宗の寺がないのを惜しみ、安楽寺を開基したとされる。

安楽寺と光恩寺増田家の五百年増田伊勢守とは誰か

増田市八ますだいちはち町の資料

1844〜1915年。舞木生まれ。慶応2年(1866年)に95石の名主、明治22年(1889年)に永楽村の初代村長となり十余年務めた。邑楽郡会の議長、明治43年の大水害のあとの耕地整理組合の設立にも尽くした。墓所は赤岩の安楽寺(千代田町教育委員会の説明板)。

名主から初代村長へ増田家の五百年安楽寺と光恩寺荻野吟子と長屋門

藤原秀郷(俵藤太)ふじわらのひでさと(たわらのとうた)町の資料

平安中期の武将。天慶3年(940年)に平将門を討った。百足退治の伝説で知られる。千代田町の資料は、出生地に舞木・赤岩など諸説があり、舞木城を築いたと伝える。上野・下野の多くの武士が「秀郷流」を名乗った。

俵藤太の伝承と舞木城址増田家の五百年増田伊勢守とは誰か上泉伊勢守と増田伊勢守

上泉信綱(上泉伊勢守)かみいずみのぶつな二次資料

戦国時代の兵法家で、新陰流の祖。大胡氏の一族とされる上泉氏の出。印可状には「上泉伊勢守藤原信綱」と署名し、同時代の公家の日記には「大胡武蔵守」として現れる。

上泉伊勢守と増田伊勢守増田家の五百年増田伊勢守とは誰か

由良成繁(横瀬成繁)ゆらなりしげ二次資料

1506〜1578年。新田金山城主。横瀬氏から由良氏に改めた。上杉と北条のあいだで立場を変えながら新田の領地を保った。増田繁政はその家臣とされる。

上泉伊勢守と増田伊勢守増田家の五百年増田伊勢守とは誰か

足利尊氏あしかがたかうじ背景

室町幕府を開いた武将(1305〜1358年)。正室は北条氏一門の赤橋登子。増田家には、一族が尊氏の結婚式に出席したという伝承がある。

新田一族・足利尊氏との関わり増田家の五百年

新田義貞にったよしさだ背景

上野国新田荘の武将。元弘3年(1333年)に鎌倉幕府を攻め滅ぼした。のち足利尊氏と争った。

新田一族・足利尊氏との関わり増田家の五百年

荻野吟子おぎのぎんこ町の資料

1851〜1913年。利根川の対岸、俵瀬村(現・熊谷市)の名主荻野綾三郎の五女。明治18年(1885年)に医術開業試験に合格し、公許の女医第一号となった。生家の長屋門が光恩寺に残る。増田家は荻野家との血縁を伝える。

荻野吟子と長屋門増田家の五百年安楽寺と光恩寺

田山花袋たやまかたい町の資料

1872〜1930年。館林生まれの小説家。『蒲団』『田舎教師』で知られる。舞木の鰻屋新田家は花袋ゆかりの店とされ、赤岩の八幡神社には花袋の歌碑がある。

鰻の新田家と田山花袋利根川と赤岩の渡し、庄屋の家

大屋晋三おおやしんぞう二次資料

1894〜1980年。帝人の社長、商工大臣・運輸大臣などを務めた。佐貫村川俣(現・明和町)の生まれで、少年時代に父の転任で永楽村舞木に移った。増田家には、若いころ家に丁稚奉公していたという伝承がある。

増田家を訪れた人びと増田家の五百年名主から初代村長へ利根川と赤岩の渡し、庄屋の家

大山巌おおやまいわお家の伝承

1842〜1916年。陸軍の軍人で元帥。日清戦争で第2軍司令官、日露戦争で満州軍総司令官。出征の前に増田家に立ち寄って書を残したと伝わる。

増田家を訪れた人びと増田家の五百年利根川と赤岩の渡し、庄屋の家

赤井照光あかいてるみつ町の資料

戦国時代の館林城主(1545年没)。狐の伝説で知られる尾曳城(館林城)を築いたとされ、遺言で赤岩の光恩寺の堂山に葬られた。

安楽寺と光恩寺増田家の五百年俵藤太の伝承と舞木城址

家と一族

増田家(赤岩・舞木)ますだけ家の伝承

千代田町赤岩・舞木の旧家。墓誌は初代を増田伊勢守繁敏とし、十六代を数える。江戸時代から名主を務め、明治には永楽村の初代村長を出した。第二次世界大戦の終戦まで庄屋として地域を治めたと伝える。

増田家の五百年増田伊勢守とは誰か上泉伊勢守と増田伊勢守俵藤太の伝承と舞木城址

増田氏・益田氏(大胡城の城代)ますだし二次資料

戦国時代、金山城の横瀬(由良)氏の家臣として大胡城の城代を務めたとされる一族。資料により「増田」とも「益田」とも書く。大胡氏と同じ秀郷流の藤原氏を称したと伝える。

増田伊勢守とは誰か増田家の五百年俵藤太の伝承と舞木城址新田一族・足利尊氏との関わり

秀郷流ひでさとりゅう二次資料

藤原秀郷の子孫を称する武士の家々。上野国では佐貫氏・大胡氏・赤堀氏など、下野国では佐野氏・小山氏など、陸奥では奥州藤原氏が挙げられる。墓誌が初代を「藤原繁敏」と記すのも、この流れを名乗るものと考えられる。

俵藤太の伝承と舞木城址増田家の五百年増田伊勢守とは誰か上泉伊勢守と増田伊勢守

大胡氏おおごし二次資料

赤城山の南麓、大胡(前橋市)を本拠とした秀郷流の武士。天文年間に横瀬氏に圧迫されて江戸の牛込へ移ったとされ、その後の大胡城には横瀬氏の家臣増田(益田)氏が入ったとされる。

上泉伊勢守と増田伊勢守増田家の五百年増田伊勢守とは誰か俵藤太の伝承と舞木城址

上泉氏かみいずみし二次資料

大胡城の支城とされる上泉城(前橋市上泉町)の城主の家。大胡氏の一族とされるが、上泉家の家伝は一色氏の出とする。剣聖上泉信綱を出した。

上泉伊勢守と増田伊勢守

横瀬氏(由良氏)よこせし(ゆらし)二次資料

新田の岩松氏の家宰から下剋上で新田領を握った一族。金山城を本拠とし、成繁のときに由良と改めた。新田義貞の家臣の末裔を称した。

新田一族・足利尊氏との関わり増田家の五百年増田伊勢守とは誰か上泉伊勢守と増田伊勢守

新田氏・新田一族にったし家の伝承

上野国新田荘を本拠とした源氏の一族。南北朝時代に義貞が活躍した。増田家は新田一族と交わったと伝える。

新田一族・足利尊氏との関わり増田家の五百年鰻の新田家と田山花袋

塩田家しおだけ(読みは確認中)家の伝承

増田家と血縁があると伝える家。家の伝承では光恩寺を建立したとされる。光恩寺はずっと古い由緒をもつ寺なので、どのような関わり(再建・寄進・檀家としての世話など)を指すのかを調べている。

安楽寺と光恩寺増田家の五百年荻野吟子と長屋門

荻野家(俵瀬)おぎのけ家の伝承

利根川の南岸、武蔵国幡羅郡俵瀬村の名主の家。荻野吟子の生家。増田家は荻野家と血縁があり、荻野家が絶えたとき長屋門を引き取ったと伝える。

荻野吟子と長屋門増田家の五百年

奥州藤原氏おうしゅうふじわらし背景

平安時代の終わりに平泉を本拠として東北を治めた一族(清衡・基衡・秀衡・泰衡)。秀郷流を称した。光恩寺の阿弥陀三尊像には、寺伝で藤原秀衡の名が伝わる。

増田家の五百年

寺社・史跡

安楽寺あんらくじ二次資料

千代田町赤岩1057の曹洞宗の寺(米頂山)。増田家の墓所があり、墓誌は五代目新右エ門が開基したと記す。徳治元年(1306年)に臨済宗の寺として開山し、寛永7年(1630年)に曹洞宗として中興したとも紹介される。境内に米山薬師古墳。

安楽寺と光恩寺増田家の五百年増田伊勢守とは誰か俵藤太の伝承と舞木城址

光恩寺こうおんじ町の資料

千代田町赤岩1041の真言宗の寺(赤岩山)。千代田町でいちばん古い寺で、約1200年前に開かれたと伝える。銅五種鈴(国の重要文化財)、地蔵菩薩画像板碑、荻野吟子の生家の長屋門などがある。

安楽寺と光恩寺増田家の五百年俵藤太の伝承と舞木城址荻野吟子と長屋門

長屋門(合格の門)ながやもん町の資料

荻野吟子の生家の門で、いまは光恩寺にある国の登録有形文化財。吟子が医師を志してこの門を出たことから「合格の門」と呼ばれ、毎年1月1日から4日まで開かれてくぐることができる。

荻野吟子と長屋門増田家の五百年安楽寺と光恩寺

舞木城址まいぎじょうし町の資料

千代田町舞木。藤原秀郷が築いたと伝わる城の跡で、永楽小学校の敷地として使われたあと俵団地になった。一角に「藤原秀郷公誕生之地」の碑がある。

俵藤太の伝承と舞木城址増田家の五百年鰻の新田家と田山花袋

大胡城おおごじょう二次資料

前橋市河原浜町にあった平山城(県指定史跡)。大胡氏の居城で、戦国時代には横瀬・由良氏の家臣増田(益田)氏が城代を務めたとされる。

上泉伊勢守と増田伊勢守増田家の五百年増田伊勢守とは誰か俵藤太の伝承と舞木城址

上泉城かみいずみじょう二次資料

前橋市上泉町にあった上泉氏の城。大胡城の支城とされる。墓誌は増田家初代を「大胡上泉城」の城主と記す。

上泉伊勢守と増田伊勢守増田家の五百年増田伊勢守とは誰か

金山城(新田金山城)かなやまじょう二次資料

太田市の金山にあった山城。岩松氏、ついで横瀬(由良)氏の本拠。軍記『上州坪弓老談記』では「新田金山の城」として登場する。

新田一族・足利尊氏との関わり増田家の五百年増田伊勢守とは誰か上泉伊勢守と増田伊勢守

新土塚城しんどづかじょう二次資料

前橋市にあった平城。城郭サイトは由良氏家臣増田繁政の居城とし、『日本城郭大系』の一覧にも増田繁政の城と載ると紹介されている。

増田伊勢守とは誰か

赤岩城あかいわじょう町の資料

鎌倉時代に佐貫氏の一族が赤岩に築いたと伝わる城。跡地は光恩寺の境内とされる。

増田家の五百年

地名

赤岩あかいわ町の資料

千代田町の大字。利根川の北岸で、江戸時代は河岸と渡しで栄えた。光恩寺・安楽寺、町役場がある。増田家が戦国時代から住んだ土地と伝える。

利根川と赤岩の渡し、庄屋の家増田家の五百年増田伊勢守とは誰か上泉伊勢守と増田伊勢守

舞木まいぎ町の資料

千代田町の大字。舞木城址(俵団地)、鰻屋新田家がある。増田市八の生まれた地。

名主から初代村長へ増田家の五百年増田伊勢守とは誰か俵藤太の伝承と舞木城址

永楽村えいらくむら町の資料

1889年4月1日、赤岩村の大部分・舞木村・福島村・鍋谷村・新福寺村などが合併してできた村。初代村長は増田市八。1955年に富永村・長柄村と合併して千代田村となった。

名主から初代村長へ増田家の五百年増田伊勢守とは誰か利根川と赤岩の渡し、庄屋の家

千代田町ちよだまち二次資料

群馬県邑楽郡の町。1955年に永楽・富永・長柄の3村が合併して千代田村となり(長柄村の地域はのち中島村へ)、のち町になった。

名主から初代村長へ増田家の五百年増田伊勢守とは誰か俵藤太の伝承と舞木城址

邑楽郡おうらぐん二次資料

群馬県の南東部の郡。館林・千代田・明和・大泉・邑楽・板倉の地域。中世は佐貫荘と呼ばれた。

増田家の五百年名主から初代村長へ利根川と赤岩の渡し、庄屋の家鰻の新田家と田山花袋

俵瀬たわらせ町の資料

利根川の南岸、熊谷市(旧妻沼町)の地名。荻野吟子の生まれた村。赤岩とは渡しで結ばれている。

荻野吟子と長屋門増田家の五百年利根川と赤岩の渡し、庄屋の家

利根川とねがわ背景

群馬県と埼玉県の境を流れる大河。赤岩は江戸に通じる舟運の河岸として栄えた一方、たびたび洪水に見舞われた。

利根川と赤岩の渡し、庄屋の家増田家の五百年増田伊勢守とは誰か上泉伊勢守と増田伊勢守

赤岩渡船(赤岩の渡し)あかいわとせん二次資料

赤岩と対岸の熊谷市葛和田を結ぶ渡し船。上杉謙信に関する文献にも登場し、江戸時代は坂東十六渡津の一つ。いまは無料の県道の渡し。

利根川と赤岩の渡し、庄屋の家荻野吟子と長屋門鰻の新田家と田山花袋

新田荘にったのしょう背景

上野国新田郡(太田市周辺)にあった荘園で、新田氏の本拠。赤岩の北西、渡良瀬川と利根川のあいだにあたる。

新田一族・足利尊氏との関わり増田家の五百年

長岡(新田郡)ながおか家の伝承

墓誌が、初代繁敏がのちに城主となったと記す「新田郡長岡」。旧新田郡には西長岡村(いまの太田市西長岡町・東長岡町のあたり)があるが、墓誌の長岡がここを指すのか、城があったのかは確かめられていない。

増田伊勢守とは誰か増田家の五百年上泉伊勢守と増田伊勢守新田一族・足利尊氏との関わり

佐貫荘さぬきのしょう町の資料

中世の邑楽郡一帯の荘園。秀郷流の佐貫氏が治め、のち赤井氏が台頭して「館林領」と呼ばれるようになった。

増田家の五百年俵藤太の伝承と舞木城址

制度・用語

伊勢守(官途名)いせのかみ背景

もとは伊勢国の長官の官名。戦国時代の武士は朝廷から正式に任じられなくても「○○守」を名乗ることが多く(官途名・受領名)、同じ時代に何人もの「伊勢守」がいた。名前が同じというだけでは、血縁の証拠にはならない。

上泉伊勢守と増田伊勢守増田家の五百年増田伊勢守とは誰か俵藤太の伝承と舞木城址

城代じょうだい背景

城主に代わって城を預かり守る家臣。大胡城では横瀬(由良)氏の家臣増田(益田)氏が城代を務めたとされる。

増田伊勢守とは誰か増田家の五百年上泉伊勢守と増田伊勢守俵藤太の伝承と舞木城址

名主・庄屋なぬし・しょうや背景

江戸時代の村の長。年貢の取りまとめや村の運営をになった。関東では名主と呼ぶことが多い。増田市八は慶応2年(1866年)に95石の名主を務めた。

利根川と赤岩の渡し、庄屋の家増田家の五百年増田伊勢守とは誰か荻野吟子と長屋門

郷士ごうし背景

農村に住む武士、または武士の家柄をもつ有力な農民。墓誌は平馬之助が「赤岩の郷土」となったと刻むが、文脈からは「郷士」の意味とも読める。

増田伊勢守とは誰か

町村制ちょうそんせい背景

明治22年(1889年)に施行された地方制度。江戸時代からの村をいくつかまとめて新しい町村をつくり、村長と村会を置いた。永楽村はこのときに生まれた。

名主から初代村長へ増田家の五百年

郡会ぐんかい町の資料

郡制で郡に置かれた議会。邑楽郡会は明治29年(1896年)に発足し、増田市八は郡会議員・郡会議長を務めた。

名主から初代村長へ増田家の五百年利根川と赤岩の渡し、庄屋の家増田家を訪れた人びと

耕地整理組合こうちせいりくみあい町の資料

田畑の区画・用水路・道を整え直すために地主たちがつくった組合。増田市八は明治43年の大水害のあと、富永村外四か村耕地整理組合の設立に奔走した。

名主から初代村長へ増田家の五百年利根川と赤岩の渡し、庄屋の家

明治43年の大水害めいじ43ねんのだいすいがい背景

1910年8月、梅雨前線と二つの台風で関東の川が氾濫した大水害。関東だけで死者769人とされる。

名主から初代村長へ増田家の五百年

農地改革のうちかいかく背景

第二次世界大戦後、1947年から1950年にかけて国が地主の小作地を買い上げ、小作人に売り渡した改革。村の地主・庄屋の家の役割が大きく変わった。

利根川と赤岩の渡し、庄屋の家増田家の五百年

新陰流しんかげりゅう二次資料

上泉信綱が陰流などをもとに開いた剣術の流派。柳生宗厳に伝えられ、柳生新陰流として広まった。

上泉伊勢守と増田伊勢守増田家の五百年増田伊勢守とは誰か

曹洞宗そうとうしゅう背景

禅宗の一派。墓誌は、増田家が大胡・長岡のころから代々曹洞宗を信仰し、安楽寺を開いたと記す。

安楽寺と光恩寺増田家の五百年増田伊勢守とは誰か

墓誌ぼし家の伝承

墓所に建てて一族や故人の由来を刻んだ石碑。増田家の墓誌は昭和62年(1987年)に十六代増田新一郎が建てた。

増田伊勢守とは誰か増田家の五百年上泉伊勢守と増田伊勢守俵藤太の伝承と舞木城址

作品・資料

上州坪弓老談記じょうしゅうつぼゆみろうだんき二次資料

戦国時代の上野国の合戦を語る軍記物。大正4年(1915年)の『国史叢書』に収められた。新田(金山城)方の増田伊勢守・増田主膳之助・増田紀伊守が登場する。

増田伊勢守とは誰か増田家の五百年新田一族・足利尊氏との関わり

新田家(鰻屋)にったや二次資料

千代田町舞木の鰻料理店。嘉永年間の創業と伝え、田山花袋ゆかりの店で、花袋直筆の掛け軸がある。増田家は家が作らせた店だと伝える。

鰻の新田家と田山花袋増田家の五百年俵藤太の伝承と舞木城址利根川と赤岩の渡し、庄屋の家

花埋みはなうずみ背景

渡辺淳一が荻野吟子の生涯を描いた小説(1970年)。吟子の名を広く知らせた。

荻野吟子と長屋門

千代田町史・千代田町誌ちよだちょうし背景

千代田町が編んだ町の歴史。町誌(1974年)と、通史・近世資料編・近代現代資料編・民俗編などの町史(1987〜2004年)がある。名主や村政の記録を調べる手がかり。

増田家の五百年増田伊勢守とは誰か名主から初代村長へ