赤岩の家

利根川と赤岩の渡し、庄屋の家 ― 江戸から農地改革まで

増田家は、第二次世界大戦の終戦まで庄屋として地域を治めたと伝えます。舟運と渡しで栄え、たびたび洪水に見舞われた利根川べりの赤岩・舞木で、村の長の家はどんな役割をになったのか。江戸の支配のしくみから戦後の農地改革まで、確かめられることを順にたどります。

伊勢守編集部・2026年10月17日更新

赤岩渡船の新千代田丸
赤岩渡船の新千代田丸写真: Kochizufan(CC BY-SA 4.0、Wikimedia Commons)

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赤岩は利根川の北岸にあり、対岸の熊谷市葛和田・俵瀬とは、いまも県営の渡し船で結ばれています。千代田町の役場があるのも赤岩です。増田家は戦国時代にこの地へ移り、終戦まで庄屋として地域を治めたと伝えています12。

川の港としての赤岩

二次資料赤岩の渡しは古く、上杉謙信に関する文献にも登場します。江戸時代には利根川を行き来する舟運が発達し、赤岩は水深があって江戸などから大型の船がさかのぼれる終点として、幕府の「坂東十六渡津」の一つに数えられました。中山道の熊谷宿と館林を結ぶ往還の渡し場でもあり、交通と流通の要所でした3。

二次資料明治16年(1883年)ごろからは鉄道などの発達で河岸は衰え、渡船場としての役割だけが残りました。大正15年(1926年)に群馬県営となり、昭和24年(1949年)からは千代田町が運航を受け持っています3。

二次資料一方で、川は災いももたらしました。寛保2年(1742年)の江戸洪水では、利根川上流の舞木・赤岩などで堤防が切れたと伝わります4。明治43年(1910年)の大水害のあとには、増田市八が耕地整理組合の設立に奔走しています5。

江戸時代の支配と名主

史料明治初年の『旧高旧領取調帳』によると、赤岩村は幕府領(関東在方掛の岩鼻陣屋が管轄)で、村内に寺社領がありました。舞木村は幕府領と前橋藩領が入り組む相給の村でした6。館林藩は邑楽郡の多くの村を治めましたが、赤岩・舞木は明治の初めには館林藩領ではありませんでした。

背景関東の村では、村の長を名主と呼ぶことが多く、庄屋と同じ役目です。年貢の割り付けと取りまとめ、領主からの触れの伝達、村の争いごとの仲裁、用水や堤防の普請の差配などをにないました。名主の家は、たいてい村でいちばん古く、田畑を多く持つ家でした。

町の資料増田家が名主だったことは、幕末について確かめられます。千代田町教育委員会の説明板は、増田市八が慶応2年(1866年)に22歳で95石の名主を務めたと記しています5。同じ舞木では森田梅庵・大塚半蔵も名主を務めたと町の資料にあり7、村の中に複数の名主の家があったことが分かります。

家の伝承増田家が江戸時代を通じて名主を務めたのか、赤岩と舞木のどちらの名主だったのかは、家の伝承と墓誌のほかにまだ資料がありません。墓誌は、二代目平馬之助が赤岩に来て土地の家となり、五代目が安楽寺を開いたと記しています1。

明治・大正の地主として

町の資料明治になると、名主の家の多くは、新しい村の村長・村会議員や郡会議員として地域の行政をになうようになりました。増田市八は永楽村の初代村長、邑楽郡会議長を務めています5。

家の伝承増田家には、明治維新のころに落ちのびる松平家をかくまった話、出征前の大山巌が立ち寄って書を残した話、若い大屋晋三が奉公に来ていた話が伝わっています(「増田家を訪れた人びと」)2。舞木の鰻屋新田家を作らせた、という話もあります(「鰻の新田家と田山花袋」)。どれも、地域の有力な家として人の行き来の中心にあったことを語る伝承です。

終戦と農地改革

背景第二次世界大戦のあと、昭和22年(1947年)3月から昭和25年(1950年)7月まで、国は地主の小作地を買い上げて小作人に売り渡す農地改革を行いました。全国で約193万町歩の農地が移り、農地に占める小作地の割合は46%から10%に下がりました8。これにより、村の土地の多くを持ち、村の運営の中心にあった地主の家の役割は大きく変わりました。

家の伝承増田家が「終戦まで庄屋として地域を治めた」という伝承は、この農地改革によって、江戸時代から続いた地主・庄屋の家としての役割が終わったことを語っていると考えられます2。増田家の土地がどれだけ売り渡されたかなど、具体的なことは千代田町史の近代現代資料編などで確かめたいと考えています9。

史料昭和30年(1955年)、永楽村は富永村・長柄村と合併して千代田村になりました10。昭和62年(1987年)、十六代増田新一郎は墓を改葬し、「増田家五百年の輝く歴史と不滅の伝統を省みるとき感慨あらたなものがある」と墓誌に刻みました1。

出典・資料

  1. 増田家墓誌(十六代 増田新一郎、昭和62年(1987年)12月) 家の記録
  2. 増田家に伝わる話(聞き取り)(増田家、2026年) 家の伝承
  3. 赤岩渡船(Wikipedia) 百科事典 開く
  4. 関宿城(Wikipedia) 百科事典 開く
  5. 説明板「増田市八」(千代田町教育委員会、平成23年(2011年)2月) 町の資料
  6. 旧高旧領取調帳(関東編)(明治初年の記録) 史料 開く
  7. 郷土の偉人(千代田町(教育委員会事務局 生涯学習係)) 町の資料 開く
  8. 農地改革(Wikipedia) 百科事典 開く
  9. 千代田町史(通史・近世資料編・近代現代資料編・民俗編ほか)(千代田町、1987〜2004年) 刊行物(未確認) 開く
  10. 永楽村/千代田町/邑楽郡(Wikipedia) 百科事典 開く

資料の一覧は資料のページにあります。家の伝承は増田家への聞き取りと墓誌によります。

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通史

増田家の五百年

俵藤太に始まる秀郷流の伝承、新田と足利、上杉と北条のはざまで揺れた戦国の大胡城、そして利根川べりの赤岩・舞木での名主と村長の家。増田家の歩みを、時代ごとに「周りの大きな氏族と出来事」「増田家の資料が語ること」「そのつながり」の三つに分けて、通して読めるようにまとめました。

大きな氏族のはざまで赤岩を治めた一族

一族の起こり

増田伊勢守とは誰か

増田家の墓誌は、初代を「上洲大胡上泉城三万石の城主 増田伊勢守藤原繁敏」と刻んでいます。戦国時代の上野国には、たしかに「増田伊勢守」「増田繁政」という名が現れます。家の記録と外の記録を一つずつ並べ、分かっていることと分からないことを整理しました。

墓誌と戦国の記録を読み合わせる

一族の起こり

上泉伊勢守と増田伊勢守

剣聖と呼ばれた上泉伊勢守信綱と、増田家の初代とされる増田伊勢守。二人の「伊勢守」は、赤城山の南麓、大胡と上泉という同じ土地でつながっています。同じ名乗りが意味すること、意味しないことを、資料ごとに分けて考えます。

大胡城・新陰流と増田家

一族の起こり

俵藤太の伝承と舞木城址

増田家は、平将門を討った藤原秀郷(俵藤太)に発するとされています。千代田町には秀郷の出生地とする伝承があり、舞木城址には誕生の地の碑が建っています。町の資料・城跡の案内・家の伝承を分けて紹介します。

「藤原秀郷公誕生之地」の碑