赤岩の家

増田家を訪れた人びと ― 松平家の書状、大山巌の書、大屋晋三

増田家には、明治維新のときに落ちのびる松平家をかくまった話、出征前の大山巌が立ち寄って書を残した話、のちの帝人社長・大屋晋三が若いころ奉公していた話が伝わります。家に残る書状や書は未公開で、調べているところです。分かっている背景とあわせて紹介します。

伊勢守編集部・2026年10月17日更新

大山巌
大山巌写真: 作者不明(Public domain、Wikimedia Commons)

この記事の表示:家の伝承背景推測二次資料表示の意味

利根川の渡しに近い赤岩・舞木の旧家には、さまざまな人が立ち寄りました。増田家に伝わる三つの話を、それぞれ確かめられる背景とともに紹介します。どの話も、家に残る品や言い伝えに基づくもので、文面や年代はこれから確かめる段階です。

明治維新と松平家の書状

家の伝承増田家には、明治維新の折、逃げ落ちる松平家を増田家がかくまったことがあり、そのときの書状などが残されていると伝わります12。

背景慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、北関東も戦場になりました。江戸時代には「松平」を名乗る大名家が数多くあり、上野・武蔵の周辺にも松平を名乗る藩がいくつもありました。また、幕末の赤岩村は幕府領、舞木村は幕府領と前橋藩領の相給でした3。

推測どの松平家の、どの人物を、いつかくまったのかは、書状の文面を読めば手がかりが得られるはずです。書状を拝見できるまでは、このサイトでは特定の家の名を挙げずに「松平家」としておきます。

大山巌の書

家の伝承陸軍の大山巌が出征の前に増田家に立ち寄り、書を残したと伝わります。その書は増田家に残されています42。

二次資料大山巌(1842〜1916年)は薩摩出身の陸軍軍人で、日清戦争(1894〜1895年)では第2軍司令官、日露戦争(1904〜1905年)では元帥・満州軍総司令官を務めました5。

推測「出征の前」が日清戦争と日露戦争のどちらの折かは、まだ分かりません。書に年紀(年月)や署名の肩書があれば、時期を絞り込めます。どちらの戦争も、増田市八が永楽村長・邑楽郡会議員として地域の行政にあたっていた明治の半ば以降のことで、地域の有力者の家として来客を迎えたことが考えられます。

大屋晋三と舞木

家の伝承のちに帝人の社長となり、商工大臣・大蔵大臣臨時代理・運輸大臣も務めた大屋晋三が、若いころに増田家に丁稚奉公で住み込んでいた、と増田家では伝えています2。

二次資料大屋晋三は明治27年(1894年)、邑楽郡佐貫村大字川俣(いまの明和町)に生まれました。父の央は佐貫村の尋常小学校の校長でした。晋三が高等小学校2年になるとき、父が永楽村の尋常小学校長に転任し、一家は永楽村大字舞木に移りました67。

二次資料明治40年(1907年)に高等小学校を卒業すると、前橋で歯科医をしていた従兄の家に書生として住み込み、旧制前橋中学に通います。のち太田中学邑楽分校(いまの館林高校)に移り、明治45年(1912年)からは長柄村の尋常高等小学校の代用教員を1年ほど務めたあと、東京高等商業学校(いまの一橋大学)に進みました6。

推測晋三の一家が舞木に住んでいたことは、伝記的な資料で確かめられます。増田家の地元である舞木で少年時代を過ごした晋三が、増田家に出入りし、あるいは住み込んでいたという家の伝承は、この事実とよく重なります。ただ、Wikipediaが出典とする自伝『私の履歴書』には、前橋の従兄の家に「書生」として住み込んだことは書かれているものの、増田家への奉公の記述があるかどうかは、本文を確かめていません。今後、『私の履歴書』や『人間大屋晋三』を読んで確かめる予定です78。

家に残る品を調べています

松平家の書状、大山巌の書は、増田家が所蔵しています。文面の読み下し、写真の公開の可否などを、ご家族と相談しながら進めています。関連する資料やお話をご存じの方は、資料を集めていますをご覧ください。

出典・資料

  1. 松平家からの書状(明治維新のころ(年未詳)) 家の伝承
  2. 増田家に伝わる話(聞き取り)(増田家、2026年) 家の伝承
  3. 旧高旧領取調帳(関東編)(明治初年の記録) 史料 開く
  4. 大山巌の書(大山巌、年未詳) 家の伝承
  5. 大山巌(Wikipedia) 百科事典 開く
  6. 大屋晋三(Wikipedia) 百科事典 開く
  7. 私の履歴書 第6集(大屋晋三)(日本経済新聞社 編、1958年) 刊行物(未確認) 開く
  8. 人間大屋晋三 帝人“不倒翁社長”の執念(綱淵昭三、1975年) 刊行物(未確認) 開く

資料の一覧は資料のページにあります。家の伝承は増田家への聞き取りと墓誌によります。

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通史

増田家の五百年

俵藤太に始まる秀郷流の伝承、新田と足利、上杉と北条のはざまで揺れた戦国の大胡城、そして利根川べりの赤岩・舞木での名主と村長の家。増田家の歩みを、時代ごとに「周りの大きな氏族と出来事」「増田家の資料が語ること」「そのつながり」の三つに分けて、通して読めるようにまとめました。

大きな氏族のはざまで赤岩を治めた一族

一族の起こり

増田伊勢守とは誰か

増田家の墓誌は、初代を「上洲大胡上泉城三万石の城主 増田伊勢守藤原繁敏」と刻んでいます。戦国時代の上野国には、たしかに「増田伊勢守」「増田繁政」という名が現れます。家の記録と外の記録を一つずつ並べ、分かっていることと分からないことを整理しました。

墓誌と戦国の記録を読み合わせる

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剣聖と呼ばれた上泉伊勢守信綱と、増田家の初代とされる増田伊勢守。二人の「伊勢守」は、赤城山の南麓、大胡と上泉という同じ土地でつながっています。同じ名乗りが意味すること、意味しないことを、資料ごとに分けて考えます。

大胡城・新陰流と増田家

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増田家は、平将門を討った藤原秀郷(俵藤太)に発するとされています。千代田町には秀郷の出生地とする伝承があり、舞木城址には誕生の地の碑が建っています。町の資料・城跡の案内・家の伝承を分けて紹介します。

「藤原秀郷公誕生之地」の碑