一族の起こり
増田伊勢守とは誰か ― 墓誌と戦国の記録を読み合わせる
増田家の墓誌は、初代を「上洲大胡上泉城三万石の城主 増田伊勢守藤原繁敏」と刻んでいます。戦国時代の上野国には、たしかに「増田伊勢守」「増田繁政」という名が現れます。家の記録と外の記録を一つずつ並べ、分かっていることと分からないことを整理しました。
伊勢守編集部・2026年10月17日更新

この記事の表示:家の伝承二次資料推測背景町の資料表示の意味
千代田町赤岩の増田家の墓所には、昭和62年(1987年)12月に十六代増田新一郎が墓を改葬した際に建てた墓誌があります1。そこには一族の始まりが次のように刻まれています。
増田家先祖は上洲大胡上泉城三万石の城主増田伊勢守藤原繁敏なり 後に新田郡長岡の城主となり室町末期弘治二年に歿す
弘治2年は西暦1556年です。この一文には、名前(繁敏)、官途名(伊勢守)、本姓(藤原)、城(大胡・上泉、のち新田郡長岡)、没年の五つの手がかりが入っています。墓誌は家の記録として大切な資料ですが、戦国時代から四百年以上あとに刻まれたものです。そこで、この記事では墓誌の一つひとつの言葉を、ほかの資料と照らし合わせていきます。
墓誌が伝える増田家の始まり
家の伝承墓誌はさらに、繁敏の次男の平馬之助が母に付き添って戦火を逃れ、赤岩の地に来て武士を捨て、母とともに増田家の二代目を継いで「赤岩の郷土」となったと記します1。石には「郷土」と刻まれていますが、武士をやめて土地に根を下ろしたという文脈からは、農村に住む武士の家を意味する「郷士」とも読めます。続けて、増田家は大胡・長岡のころから代々曹洞宗を深く信仰し、赤岩村に曹洞宗の寺がないのを惜しんで、五代目新右エ門の代に安楽寺を開基したとあります。
家の伝承まとめると、墓誌が語る増田家の歴史は「戦国時代に大胡・上泉の城にいた武士の家が、戦乱を逃れて利根川べりの赤岩に移り、土地の家として続いてきた」というものです。墓誌は「父祖五世紀に亘る」「増田家五百年」とも記し、十六代を数えています。
戦国時代の記録に現れる「増田」
二次資料赤城山の南麓にあった大胡城(前橋市河原浜町)は、藤原秀郷の流れをくむ大胡氏の城でした。Wikipediaの「大胡城」は、大胡氏に城を保つ力がなくなったあと、新田金山城(太田市)の横瀬国繁の方についた大胡城には、配下の益田氏が居城したと説明しています。益田氏は大胡氏と同じ秀郷系の藤原氏を名乗ったと伝わります2。
二次資料同じ項目は、『大胡町誌』に収められた「益田氏系図略記」と益田氏の菩提寺の縁起を紹介しています。それによると、益田行綱が大胡城を築き、行茂(嘉吉元年=1441年に戦死)、修茂(享徳年間に横瀬国繁に属す)と続き、四代目の茂政のときに大胡城が落ちて新田へ移り、横瀬景繁の娘をめとったといいます23。独立行政法人水資源機構の解説も、横瀬氏配下の益田氏が大胡城にいたが、享徳年間に伊勢崎の那波氏との戦いで落城し、新田郷へ逃れたと伝える、としています4。
二次資料戦国時代の後半については、城郭を紹介するサイトがより具体的な名前を挙げています。「城郭放浪記」は、天文10年(1541年)ごろ大胡氏が金山城の横瀬氏に圧迫されて江戸の牛込へ移ったあと、金山城の由良成繁の家臣増田繁政が城代を務めたとします5。「古城址探訪」は、永禄9年(1566年)に由良成繁が上杉方から北条方へ移ったため、上杉謙信が大胡城を攻め落とし、このときの城代が増田繁政だったとし、さらに天正10年(1582年)には由良家臣の増田伊勢守が城代として派遣されたと記します6。同じサイトは、前橋市の新土塚城を増田繁政の居城としています7。
二次資料軍記物にも名前が見えます。大正4年(1915年)の『国史叢書』に収められた『上州坪弓老談記』では、新田(金山城)の横瀬殿が忍城の成田氏のもとへ「増田伊勢守・広瀬長蔵」を使者として遣わす場面や、膳城を攻める「新田よりの加勢」に増田伊勢守が加わる場面があります。ほかに増田主膳之助・増田紀伊守という名も出てきます89。軍記は後の時代にまとめられた読み物で、年代の食い違いもあるため、そのまま史実とはいえませんが、金山城の家臣団に「増田」という一族がいたと語り継がれていたことは分かります。
墓誌と外の記録を並べると
ここまでの資料を並べると、重なるところと食い違うところがはっきりします。
- 重なるところ:戦国時代、大胡城に「増田(益田)」という一族がいたこと。その一族は秀郷流の藤原氏を名乗ったと伝わること(墓誌も初代を「藤原」繁敏と記す)。のちに新田へ移ったという伝え(益田氏系図)と、墓誌の「後に新田郡長岡の城主となり」がよく似ていること。名乗りとして「伊勢守」が使われていること。
- 食い違うところ:名前は、墓誌が「繁敏」、城郭サイトが「繁政」で、一字違います。城は、墓誌が「大胡上泉城」、外の資料は大胡城の城代とします。年代も、墓誌の繁敏は1556年に亡くなっていますが、城郭サイトの繁政は1566年に城代、増田伊勢守は1582年に城代とされ、墓誌の繁敏のあとの時代になります。
推測この食い違いの説明として、同じ一族の別の人物(親子・兄弟・同族)だった可能性、資料の書き写しの中で「敏」と「政」が入れ替わった可能性、墓誌を刻む際に家に伝わる話を要約した可能性などが考えられます。ただし、いずれも推測で、どれが正しいかを決める資料はまだ見つかっていません。
背景「三万石」という表現にも注意が要ります。石高で領地の大きさを表すのは、豊臣秀吉の太閤検地のあと、江戸時代に広まった書き方です。戦国時代の城代の領地を三万石と記すのは、後の時代の言い方で一族の格を伝えたものと読むのが自然でしょう。
「新田郡長岡」と「上泉城」
二次資料墓誌の「新田郡長岡」は、現在の太田市付近にあたる旧新田郡のどこかを指すとみられます。旧新田郡には西長岡村があり(明治22年に強戸村の一部になった)、いまの太田市には西長岡町・東長岡町の地名が残ります10。ただ、ここに城があったのか、墓誌の長岡がここを指すのかは確かめられていません。金山城の城下に近いことは、由良氏の家臣として新田へ移ったという伝えとは矛盾しません。
二次資料上泉城(前橋市上泉町)は大胡城の支城とされ、新陰流の祖・上泉伊勢守信綱の家の城です11。墓誌が初代を「上泉城」の城主とする点は、同じ「伊勢守」を名乗る上泉信綱との関係を考えさせます。この点は「上泉伊勢守と増田伊勢守」で詳しく取り上げます。
分かっていること・まだ分からないこと
町の資料確かな出発点は、増田家が赤岩・舞木に根を下ろした古い家で、幕末には名主を務め、明治には永楽村の初代村長を出したことです。これは千代田町教育委員会の説明板と町の公式サイトで確かめられます1213。そこから戦国時代までの三百年あまりをつなぐのが、墓誌と家に伝わる話です。
この間をつなぐ資料として、増田家の系図や過去帳、安楽寺の過去帳や縁起、千代田町史の近世資料編(名主の記録)、『大胡町誌』の益田氏系図略記の原文、『日本城郭大系』の新土塚城の記載などを調べていく予定です。お持ちの資料やご存じのことがあれば、資料を集めていますをご覧ください。
墓誌の全文
墓誌の文面を、改行を改めて書き写します(旧字は新字に直さず、刻まれたとおりにしています)。
増田家先祖は上洲大胡上泉城三万石の城主増田伊勢守藤原繁敏なり 後に新田郡長岡の城主となり室町末期弘治二年に歿す 増田伊勢守繁敏の次男平馬之助は母に附添い戦火を遁れ赤岩の地に来り武士を捨て母と共に増田家二代目を継ぎ赤岩の郷土となる 増田家は大胡長岡はもとより代々曹洞宗の信仰を深め赤岩村に曹洞宗の寺院のなきを惜しみ五代目新右エ門代に至って安樂寺を開基一門を挙げて曹洞宗の護持に努めた 父祖五世紀に亘る増田家の家系を顧ると 栄光と盛衰を繰り返し幾多の起伏変転を重ねた 増田家五百年の輝く歴史と不滅の伝統を省みるとき感慨あらたなものがある 先祖の広大な恩徳に感謝し末永い子孫の繁栄を祈って墓基改葬にあたり茲に記す
昭和六十二年十二月 十六代目 増田新一郎
出典・資料
- 増田家墓誌(十六代 増田新一郎、昭和62年(1987年)12月) 家の記録
- 大胡城(Wikipedia) 百科事典 開く
- 大胡町誌(大胡町、1976年) 刊行物(未確認) 開く
- 上野国・戦国時代その4 剣聖・新陰流上泉伊勢守信綱(独立行政法人水資源機構 群馬用水管理所) 公的機関の解説 開く
- 上野 大胡城(城郭放浪記)(個人サイト) 城郭サイト 開く
- 大胡城(古城址探訪)(個人サイト) 城郭サイト 開く
- 新土塚城(古城址探訪)(個人サイト) 城郭サイト 開く
- 上州坪弓老談記(『国史叢書 上州治乱記・上州坪弓老談記・上州金山軍記・新田正伝記・新田正伝或問』所収)(黒川真道 編、1915年) 二次資料(軍記) 開く
- 上州坪弓老談記(第5話・第10話・第29話・第31話)(ブログ「続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だより3」) ブログ 開く
- 新田郡(Wikipedia) 百科事典 開く
- 上泉城(古城址探訪)(個人サイト) 城郭サイト 開く
- 説明板「増田市八」(千代田町教育委員会、平成23年(2011年)2月) 町の資料
- 郷土の偉人(千代田町(教育委員会事務局 生涯学習係)) 町の資料 開く
資料の一覧は資料のページにあります。家の伝承は増田家への聞き取りと墓誌によります。



