一族の起こり

新田一族・足利尊氏との関わり ― 伝承と記録のあいだ

増田家には、源氏の新田一族と交わり、足利尊氏の結婚式に出席したという伝承があります。新田と足利は、赤岩から見て北西と北にある隣の土地です。記録で確かめられること、伝承として残ることを分けてたどります。

伊勢守編集部・2026年10月17日更新

新田金山城の大手虎口(太田市)
新田金山城の大手虎口(太田市)写真: AkaneM(CC BY 4.0、Wikimedia Commons)

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利根川の北岸、赤岩から北西に行くと太田(新田荘)、北に行くと足利です。源氏の名門である新田氏と足利氏は、どちらもこの一帯を本拠とし、鎌倉幕府を倒したあと南北朝の争いで敵味方に分かれました。増田家には、この新田・足利の両家にまつわる伝承が残っています。

家に伝わる話

家の伝承増田家では、一族が源氏である新田一族と交わり、足利尊氏の結婚式に出席した記録も残っている、と伝えています1。ここでいう「記録」が家に伝わる文書なのか、口伝えの話なのかは、まだ確認できていません。

尊氏の結婚について分かっていること

二次資料足利尊氏(1305〜1358年)の正室は赤橋登子で、鎌倉幕府の執権を出した北条氏の一門、北条久時の娘です2。足利氏は代々北条氏と縁組みを重ねており、この結婚も尊氏が鎌倉幕府の御家人だったころのものと考えられています。婚礼の日付や、誰が列席したかを記した同時代の記録は、今回調べた範囲では見つかりませんでした。

推測伝承の「足利尊氏の結婚式」は、時代の上では増田家の初代とされる繁敏(1556年没)よりも二百年あまり前のことになります。もしこの伝承が古い記録に基づくのであれば、増田家の祖先は戦国時代より前から新田・足利の周辺にいたことになります。あるいは、新田・足利という地域の歴史と家の歴史が、語り継がれるうちに結びついた可能性もあります。どちらであるかを判断する材料は、まだありません。

新田とのつながりは、戦国時代の記録に現れる

二次資料一方、増田家と「新田」とのつながりは、戦国時代の資料にはっきり現れます。新田荘を治めた新田氏の流れの岩松氏から、家宰の横瀬氏が実権を握り、金山城(太田市)を本拠に新田領を支配しました。横瀬氏はのちに由良と改め、新田義貞の家臣の末裔を称しました3。

二次資料この横瀬・由良氏の家臣として、増田(益田)氏が大胡城の城代を務めたとされます。『大胡町誌』の益田氏系図略記を紹介したWikipediaの記述では、四代目の茂政のとき大胡城が落ちて「新田へ移住」し、横瀬景繁の娘をめとったといいます45。軍記『上州坪弓老談記』でも、増田伊勢守は「新田金山の城」の横瀬殿の家臣として描かれています67。

家の伝承墓誌もまた、初代繁敏が大胡のあと「新田郡長岡の城主」となったと記しています8。家の伝承の「新田一族と交わり」は、この戦国時代の新田(由良氏)との主従・縁組みの記憶を伝えている可能性があります。

まとめ

  • 二次資料戦国時代、増田(益田)氏が新田金山城の横瀬・由良氏の家臣であり、新田へ移り横瀬氏と縁組みしたという伝えがある(益田氏系図略記・城郭サイト・軍記)。
  • 家の伝承墓誌は、初代繁敏がのちに新田郡長岡の城主となったと記す。
  • 家の伝承足利尊氏の結婚式に出席したという話は、家の伝承として残る。裏づける記録は未確認。

家に伝わる文書・系図・聞き書きなどで、尊氏の婚礼の話がどこから来たのかを確かめたいと考えています。心当たりのある方は資料を集めていますをご覧ください。

出典・資料

  1. 増田家に伝わる話(聞き取り)(増田家、2026年) 家の伝承
  2. 足利尊氏(Wikipedia) 百科事典 開く
  3. 由良成繁/横瀬氏/新田金山城(Wikipedia) 百科事典 開く
  4. 大胡城(Wikipedia) 百科事典 開く
  5. 大胡町誌(大胡町、1976年) 刊行物(未確認) 開く
  6. 上州坪弓老談記(『国史叢書 上州治乱記・上州坪弓老談記・上州金山軍記・新田正伝記・新田正伝或問』所収)(黒川真道 編、1915年) 二次資料(軍記) 開く
  7. 上州坪弓老談記(第5話・第10話・第29話・第31話)(ブログ「続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だより3」) ブログ 開く
  8. 増田家墓誌(十六代 増田新一郎、昭和62年(1987年)12月) 家の記録

資料の一覧は資料のページにあります。家の伝承は増田家への聞き取りと墓誌によります。

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