赤岩の家

荻野吟子と長屋門 ― 利根川の対岸から赤岩へ渡った「合格の門」

日本で最初の公許女医、荻野吟子の生家の長屋門は、利根川を渡って赤岩の光恩寺に建っています。増田家には、荻野家と血縁があり、荻野家が絶えたときにこの門を引き取ったという伝承があります。門が川を渡った経緯を、資料と伝承から追います。

伊勢守編集部・2026年10月17日更新

光恩寺に移築された荻野吟子の生家の長屋門
光恩寺に移築された荻野吟子の生家の長屋門写真: Kochizufan(CC BY-SA 4.0、Wikimedia Commons)

この記事の表示:町の資料史料家の伝承推測表示の意味

赤岩の光恩寺の境内に、寄棟造りの素朴な長屋門が建っています。日本で最初の公許の女医、荻野吟子の生家の門で、国の登録有形文化財です1。吟子の生まれた俵瀬は、利根川をはさんだ真向かい、赤岩渡船で4分ほどの対岸にあります2。

荻野吟子という人

町の資料荻野吟子は嘉永4年(1851年)3月3日、武蔵国幡羅郡俵瀬村(いまの熊谷市俵瀬)の名主、荻野綾三郎の五女として生まれました。18歳で結婚しましたが病を得て離婚し、その治療の中で女性の医師の必要を痛感します34。

町の資料明治6年(1873年)11月8日、医師になる決意を固めて長屋門を出て上京。東京女子師範学校、私立医学校の好寿院で学び、明治17年に女性にも医術開業試験の受験が許されると、翌明治18年(1885年)に女性でただ一人合格して、政府公許の女医第一号となりました4。東京や北海道で医療にあたり、婦人解放の運動にも力を尽くして、大正2年(1913年)6月に62歳で亡くなりました3。その生涯は渡辺淳一の小説『花埋み』(1970年)などで広く知られるようになりました53。

門が利根川を渡った時期と経緯

長屋門がいつ、どのようにして光恩寺に移ったのかは、資料によって書き方が少しずつ違います。

  • 町の資料千代田町教育委員会の説明板(平成9年再掲):移された時期は明確ではないが、明治23年(1890年)の境内図に描かれており、それ以前に移築されたようだ3。
  • 町の資料光恩寺の掲示「荻野吟子略年表」:明治20年ごろ、生家のあった俵瀬から光恩寺に移築4。
  • 史料文化遺産オンライン(文化庁):檀家の斡旋により、妻沼町の荻野家から明治20年ごろに移築1。
  • 町の資料光恩寺の公式サイト:吟子が東京で医院を開業したころ、実家の建物を整理することになり、荻野家の近所に住んでいた光恩寺の檀家を介して境内に移築されたといわれる6。

どの資料も「明治の半ば、1890年より前」という点では一致し、経緯については「荻野家が実家の建物を整理した」「檀家が仲立ちをした」と伝えています。

増田家に伝わる話

家の伝承増田家には、荻野家とは血縁があり、荻野家が途絶えたとき、川の対岸の増田家が長屋門を引き取った、という伝承があります。門はまず赤岩の増田家に建てられ、その後、増田家から光恩寺に移された、と伝えています7。

推測この家の伝承は、寺の説明にある「実家の建物を整理することになり」「檀家を介して移築された」という経緯と食い違いません。むしろ、仲立ちをした「檀家」がどの家だったのかを具体的に語るものとして読むこともできます。ただ、門が増田家の屋敷にいつからいつまで建っていたのか、光恩寺へ移った年はいつなのかを示す記録は、まだ見つかっていません。説明板にある明治23年(1890年)の境内図が、光恩寺に移った時期の下限になります3。

町の資料利根川をはさんで向かい合う俵瀬の荻野家と、赤岩・舞木の増田家は、ともに村の名主を務める家でした。荻野綾三郎は俵瀬村の名主3、増田家からは慶応2年(1866年)に増田市八が名主となっています8。渡し船で結ばれた川の両岸の名主の家どうしが縁を結ぶことは、ありうることでした。両家の血縁の具体的な形(いつ、誰と誰の縁組みか)は、家の伝承としてうかがっている段階です。

塩田家とのつながり

家の伝承増田家では、塩田家とも血縁があり、荻野吟子も血縁にあたると伝えています7。塩田家は光恩寺を建立したと伝わる家です(「安楽寺と光恩寺」)。三つの家の縁組みの順序や時期は、系図や過去帳で確かめたいと考えています。

合格の門

町の資料吟子がこの門を出て上京し、やがて医師の試験に合格したことから、長屋門は「合格の門」と呼ばれ、合格祈願の名所になっています。毎年1月1日から4日まで開かれ、実際にくぐることができます4。門の前には吟子の像が建ち、生家の跡には熊谷市立荻野吟子記念館があります9。対岸の記念館と光恩寺を、赤岩渡船で行き来する人もいます。

光恩寺の長屋門の説明板と荻野吟子像
光恩寺の長屋門の説明板と荻野吟子像撮影: 増田家

出典・資料

  1. 文化遺産オンライン「光恩寺長屋門」(文化庁、登録 1999年2月17日) 公的資料 開く
  2. 赤岩渡船(Wikipedia) 百科事典 開く
  3. 説明板「荻野吟子 生家の長屋門」(千代田町教育委員会、平成9年(1997年)12月(再掲)) 町の資料
  4. 掲示「荻野吟子略年表」(赤岩山光恩寺) 寺の資料
  5. 花埋み(渡辺淳一、1970年) 小説 開く
  6. 赤岩山光恩寺 公式ホームページ(文化財・寺宝/荻野吟子女史・受験合格の門)(赤岩山光恩寺) 寺の資料 開く
  7. 増田家に伝わる話(聞き取り)(増田家、2026年) 家の伝承
  8. 説明板「増田市八」(千代田町教育委員会、平成23年(2011年)2月) 町の資料
  9. 熊谷市立荻野吟子記念館(熊谷市) 公的資料 開く

資料の一覧は資料のページにあります。家の伝承は増田家への聞き取りと墓誌によります。

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